このまま萎縮していくのか

いままでは根拠のない希望があった。最近それさえもなくなった。・・・

そうなっていたかは甚だ疑問だ

甚だ疑問だ。はなはだだ。はなはだ、はなはだっ!

円陣って何ですか?

みんなで頑張る系アニメを見ているとよく出てくる、「ファイトーおー」とかそういうの。そういうのを鼻で笑うのがぼくの性癖。いやだってさ、知らんし。何それ、教えてよ。思い返せば学生時代の部活かなあ。クラスでもなんかやっていた気もする。でもなんかいきなり「集まって〜」とか言われて、なんか勝手に始まって、こっちは「ぽかーん」なんですけど、さも「こういうことをやるのが当たり前なんだ」と言いたげに、でもそうは言われずに。そこで普通の人(?)はいわゆる空気を読んで、察して、今後それをやっていくんだろうけどさ。いや、知らんし!これは円陣と言って〜ってきちんと説明しなさいよ!それに「ファイト」て英語じゃん。個人的なことなら別にいいんだけど、日本人が団体で英語を使うことに私はまだ違和感を覚える(ファイト以外の掛け声もあるだろうけれどね)。

挨拶とか歯磨きとかはいいんだけど、理由も聞かされずやらされてきたことが多いなあ。「何故そうするのか」を教えられたところで納得できないかもしれないけれど、とりあえず教えてほしかった。国歌の際に起立しない教員がいるとニュースで聞いたとき最初は何故と思ったけれど、それはぼくが国歌の意味や作られた背景を教えられずにただ歌うよう言われ、何も考えずに歌ってきたからだ。子供に考える機会を与えない…洗脳か!?勉強をしないと大人になってから身動きがとれなくなる、何をやるかの選択肢が狭まる。これは知っておきたかった。「勉強は大人になってからでもできる」は嘘だった。できるはできるんだけど、飲み込み易さが違う。

今、目がさめる前後に浮かんだ考えを書いた。書かないと消滅してしばらくこのことを思うことができなくなるので書いた。

アニメとかドラマとかで良いシーンってあるけどさ

画面ではそのシーンが終わったらそこで終わって視聴者からしたら良い感じだけどさ、実際はその後もそこでの時間は続いているわけで、綺麗なところだけ切り取ってんなーって思うのよ。この後どうなった?その会話の後何話したの?そのまま別れたの?もう少し話したの?って考えると現実ではそんなに綺麗にはならないって思うね

「頭痛が痛い」研究結果報告

(この項目は、書きかけの項目です。書いていて自分でも何を言っているのかわからなくなってきたので頭痛がする前に退散です)

「頭痛が痛い」というおかしな言葉を使う人がいることを知り驚いたが、よく考えてみると自分も似たようなことをおそらく言ったことがあることに気付いた。「成長痛が痛い」や「神経痛が痛い」だ。はっきりとは覚えていないが多分使ったことがある。そして今これらの言葉を考えてみると、あれ?なんだか違和感が無いような気が…。さらにそれを踏まえてもう一度「頭痛が痛い」について考えてみると、あれ?おかしくは…ない!?頭痛、神経痛、肩こり。どれも症状を表す名詞だ。〜という症状で痛い(と感じる)。〜という症状は痛い(ものである)。〜という症状が痛い(と感じる原因だ)。「頭痛」と「痛い」を使って「頭が痛い」「頭痛がする」と同じ意味にしようとすると助詞を「で」にして「頭痛で痛む」とするのがよいのではないだろうか。

〜という症状が私を痛いと感じさせるの!頭痛が私を痛いって思わせるの!頭痛が痛いの!なんやかんやで「が」になってしまうのだろう。

もともと、「頭痛が痛い」がおかしいと思ったのは「頭が痛い」または「頭痛がする」を差し置いてそんな言い方をするところにあった。普通の子供なら、まず始めに「頭が痛い」と覚えるのが自然だろう。そして、「頭痛」という言葉を覚え、「頭痛がする」と使うようになる。だが、頭痛という言葉を意味がよくわからないまま覚えた人は「頭痛が痛い」という表現をしてしまうことがあるのではないだろうか。つまり、症状の言葉の意味がよくわからないものであるほど、「(症状名)が痛い」と言ってしまうのではないか。私は小学生のとき、身体が痛くなることを親に訴えたら、それは成長痛だと言われ、成長痛というものがよくわからなかったため、とりあえず「成長痛が痛い」と口にしていたんだと思う。

自己とは今まで考え、経験してきたことの積み重ね

よく、「昔の方が良かった」と言われる。それは過去が今の自分を創り上げているからだと思う。もしも、過去の経験を否定してしまえばそれは自己を否定することになる。だからたとえ客観的に見て今の方が優れているとしても、簡単には認められないのだ

近況報告

ふと振り返るとブログを始めて4カ月が経っている。ブログを始めた理由は苦しかったから。一人が淋しかったから。実際に見てくれる人は極少数でもいい、インターネットに繋がっている人なら誰でも見る可能性があるという状態が少しでも孤独を和らげると考えた。

前にも書いたかもしれないが、まる二年、どう考えても引きこもりだった。大学を卒業するだけしてだんだんと引きこもりがちな毎日になり、その後唯一だった外との繋がりを絶ってから家の外へ出なくなった。学生時代は休日などで家から出ない日が続くと無性に歩きたい、太陽の光を浴びたいと思い、ずっと引きこもることなどなかったのだが、そんな気持ちもなくなってしまった。すると本当に家から出られなくなった。最後の半年ほどは文字通り一歩も玄関から出なかった。毎日、オンラインゲームをしていた。完全なる中毒者だった。わかってはいた。私自身も社会も様々な問題を抱えるこの現実から逃げるためにそれしかできなかった。お金は使っていないが莫大な時間を費やした。昼夜逆転、太陽の光が眩しくてカーテンを閉じている時間が増えていった。そのゲームに対する不満から辞めることを決め解放されたときには私には何も残っていなかった。今まで目をそらしてきたものが脳裏に蘇ってきた。とてつもない不安感でいっぱいだった。前にも増して眠れなくなった。その苦しみから解放されるために本当に消えてなくなりたかった。しかし「死」は通常一瞬では訪れない。数秒でも一秒でも想像を絶する激痛を伴う死は選択肢にはならなかった。

ナミうつブログ

https://sukkiri-blog.com

脱貧困ブログ

http://kentaroupeace.hatenablog.com

引きこもり、うつ病を乗り越え、自分らしく生きる~Find My Own Way

http://myownway.net

藁にもすがる思いでたどり着いたのが上記のブログでした。これらのブログの言葉が生きるための手助けをしてくれました。ありがとうございます。そして、脱貧困ブログさんの記事を読んでこのブログを始めることにしました。

当然、急に何かが変わることはなく依然として苦しい気持ちであり続けていました。そんな苦しさから逃げるように始めた仕事、週五日、一日三時間、とりあえず二カ月経過し続けられています。

今は少なくともあの頃よりは苦しくはないです。でもまだまだ不安定で、やっぱり苦しい。やはりこのまま萎縮していってしまうのではないかという気持ちの方が強い。絶望を浅い睡眠や飲食、ネットサーフィンで紛らわせる毎日だ。それでも生きると決めた以上、希望を見出したい。それがまやかしでないことを願いたい。実体があるのなら掴みたい。また熱意を持ちたい!叫びたい!

あー人類滅びないかなー

差別?区別?しないわけにはいかない。みんなに平等に接するのなら誰でもよいことになる。人によって態度を変える。事実変わる。でも変えるのは良くないというようなことが頭に書き込まれている。ぼくだから優しくしてくれるの?ぼくじゃなかったら態度を変えるの?うん、ぼくだって人によって態度が変わるよ。でもそれって言葉にするとなんか悲しい。でも実際、自分に都合の悪い人は否定したり回避しなきゃやっていられない。じゃあ、普通ぐらいの人と良い人で態度は変わる?変わるよねえ。

いや、なんか違う。「好きな人」と「これから好きになるかもしれないけれど今はわからない人」とで態度が変わるのが悲しい。仲良くなる可能性があるのに。仲良くなる未来があるかもしれないのに。

嫌でも見た目で判断してしまう自分が悲しい。中身で判断するのなら見た目で判断することは間違っていないはずなのに悲しく感じる。見た目で判断してはいけないと教わってきたから?何かが矛盾していてもどかしい。

こんなことを考えていると自分ってなんだろうってなってくる。私はあなたであなたは私。みんな同じ?じゃあもうみんないなくなればいいじゃん